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姐御−グッピー

Author:姐御−グッピー
どうも世間の障害者というククリからは、はみだしてしまう。
イジメも差別も笑いに変える、そんな経験を綴りながら、ど〜してこんな自分が出来上がったのか? 探ってみたくなりました。

はたして、何が見えてきますかねぇ。(笑)

2008.4.20 start..

写真を変えました。
オホーツク海です。
(本文とは関係ない!?) (^^;;)

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小さなコトからコツコツと・・・・・

「どんな人なんだろ〜〜??」 
                 
ひょぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!  

といつまでもしていては、なんとしても具合が悪い!?
いや、悪すぎる!!
ケド、すぐには改善できない!!
部内全員は、相手が多すぎよぉ〜〜〜〜〜〜〜〜


配属直後のお仕事は、とってもオヤサシイ物でした。
例としては、こんなものは、普通にやっても1日で終わるだろーよ!と思う物を、1週間の期限をくださるのです。 
あんまり早くやっても、相手が驚くし〜、それで〜変にイジメられてもイヤだし〜 

時間潰し、どーしましょ? 


案の定、能力を低く見られている  結果でした  が、

あはは〜〜、まただぁ〜〜。でも子ども扱いよりはイイかも〜〜 
初物(カツオとかじゃないケド)と出会うんだからシカタナイねぇ〜 
徐々に理解していただきましょうかね。 

最初からトップギアで走っても、こちらも疲れますし〜〜ね。 


と考えたのでございます。 

主任の上司  は、ちょっと偏見ありの見下しプライドタイプ で、大変でした。
しかし直接ご指導いただいた男性は、いま思えばかなりのゆるキャラだったのです。
昼休みもコンピュータルームに入って、シューティングゲームを作っているような方だったのです。 
当時は、大型コンピュータの時代です。よく作っていたものだと感心します。
もちろん、こんなことはしてはいけないコトだと思っております。 
しかし、1980年代中盤でバブル以前のまだノンビリがあった時代でございます。 
会社にも人の心にも余裕があった、そんな時代だったのでございますな。 

さて、少しづつ与えられる仕事・課題の仕上げ時間をだんだんとスピードアップしていくことによって、私の能力を徐々に理解していただくことに成功することができまして、
「どんな人なんだろ〜〜??」 
   の周波も減っていったのでございます。

同じ課の人たちには、私との約束ごとをお願いしました。

☆勝手に判断しないでわからないことは、直接私に聞く。
☆出来ないことは、私が伝える。

これで、一段と人間関係が安定したのでございます。


あと、酒  が飲めることがバレまして、急に円滑と 相成りましたぁ〜〜!

営業部署へ配属

1年間の訓練校を終えて、会社の金融システム部へ配属となりました。

ハンディ持ちの先輩が数名おられましたが、皆社内管理部門に配属されておりました。
私は、顧客営業部門だったので、当時はたいへん驚きました。

正式配属の日、さすがの私もキンチョーいたしました。
部長、副部長、課長の3名に応接室で囲まれ、会社員としての心得と企業機密の厳守をお聞きして、身が引き締まったのでございます。

今までの「はじめまして〜」の体験とは、少し違っていました。

今までは、私と関わる数名の方が
「どんな人なんだろ〜〜??」  となるのです。

が、今回は! 部内全体100人以上が

「どんな人なんだろ〜〜??」 
「どんな人なんだろ〜〜??」 
「どんな人なんだろ〜〜??」 
                   

という周波を送って来られたので、私は

ひょぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!  
ひょぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!  

と相成りました。


このひょぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!  状態は約1年続いたのでございます。

ど〜やってひょぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!  を打開したかは、またこの次に・・・・・・・・・・・・・・


不可能はない?

母から聞いたお話です。

食べ物には、好き嫌いはあまりなくてイイ子だったのではないかと思っています。(笑)
万が一 「嫌いだぁ〜〜!」なんぞ言ったら、「食べなくていいよ。」と下げてしまうスパルタ母でございました。ひょぇ〜〜!!

小学校(特別支援学校)は、給食がありました。
食器は、特別なものではなくごくごく世間と同じものを使っていました。
個人的な手の不自由度合いによって、各自持ち寄っていました。

家では母の判断で、スプーン、フォークを出してもらったり、うどんやラーメンはどんぶりではなく、スープ皿を使用していたようです。

ある日の授業参観日に一緒に給食を食べるときがあったのです。

その時のメニューは、うどん!


母は、「アレ? 大丈夫かぃ?」 と不安がよぎったのでございます。
娘は、そんな母の気持ちはまったく知らず・・・・・・、給食は始まりました。


結構深いどんぶりにも関わらず、私はぶちまけることもなく、こぼしもせずにうどんをたいらげたんだそうでございます。
これには、母はビックリ!!
自分の過保護さに、がっかり??


「なんだ。。できるんじゃ〜ないですか。勝手に親ができないって決めちゃいけないなぁ。」 
と開眼。

以後、「何でも普通にやらせましょっ。。。。。」 ってな具合になったのでございます。


おかげさまで今では、お箸が一番!!でございます。

手玉に取っちゃった?! (^^;;

訓練校へ入学案内を聞くつもりで電話したら、翌日入試と言われて、入試を受けたらその日に合格と言われて、アレ?アレ?とびっくりしていた2日間。

心の準備もナイままに、電子計算機プログラマーのお勉強を始めることとなりまして、やっと現実に向き合おうかと思っているところ(入試より10日後)に、訓練校から連絡が入ったのでございます。

「就職試験があるから、訓練校にいらっしゃい。会社は、○○製作所だから。」
「ハイ、わかりました。。。」
ひゃ〜、もう入社試験!? 人生、こんなに急展開でいいんだろーか? 製作所って、ドコでしょか?)

とあの日本を代表するような総合電機メーカーだとは、即座には思い浮かばなかったのでございました。
 この木、なんの木、気になる木、見たこともない木ですから〜〜  の会社でしたぁ〜。

試験面接日まで急な人生展開にしては、ヌボォ〜っと過ごしてしまったのでしたぁ。


さて、試験当日! 
普通は緊張のルツボになるんでしょうが、まったくその気配ナシ!
常識や普通の学力があったので、ペーパー試験もまぁまぁ出来たかな。と自己満足。

次は、面接試験となりました。実は、この時かなり面接慣れをしていました。
たとえ、失礼なコトを聞かれようとも笑顔で返せるように腹くくった、ヒドイ面接を過去に受けていたのでした。

会社の人事から2名の男性がいらっしゃいました。
これまた、私は緊張度ゼロの面接となりました。
人事の方々のほうがよっぽど緊張されていたかもしれません。

最初の質問からユーモアいっぱいで受け応え、それでいて嫌味にならないように気をつけながら、次から次に面接が進んでいきました。

終わって時計をみると、なんと45分も経過していましたぁ〜!
面接官とのお別れの挨拶も、にこやかにさわやかでしたぁ〜。


面接室は、訓練所の職員室一角を仕切った場所。ですから、職員には笑い声はツツヌケ!!
指導員たちは、しゃべっていた内容は聞こえず笑い声は響くので、気になっていたご様子。。
終わるや否や、所長が寄って来て

所 「ずいぶんと楽しそうだったね。 こんな面接初めてですよ。」
あ 「そーですか?」
所 「45分は、新記録ですよ。しかも、笑いがたえないなんて・・・」
あ 「普通にしていただけなんですが。」
  (もしかしたら、会社の人を手玉にとっちゃったんですかぁ〜ね? あらま! 



この面接で会社も決まって、わずか2週間のうちに人生の急展開も急展開となったのでございます。


偏見と、その後。

偏見というものを強く感じるようになったのは、大人になってからのこと・・・・・・

中学・高校では、一緒に学び・付き合うことによって、障害者とは?というものを私を通して、わかっていただけるのですが、社会に出て出会う方々は、もうある程度常識・知識が蓄積されているのです。

はじめまして〜〜と健常の人と出会う時、いくつかのパターンがございます。
☆もろ避ける  イジメっ子タイプ。
☆見下す・能力ナシと決めつける  こちらが能力発揮するとプライドがズタズタになるタイプ。
☆興味津々  仲良し・柔軟タイプ。
☆普通  どうにでもなるタイプ。

避けたり、見下す方は、ハンディ持ちに出会ったコトの経験がナイんですな。もしくは、よっぽどのハンディ持ちと出会ってしまい、マズ〜〜イ記憶があるとか??


あとこちらが 「自分の身体がどう見えるのか!」 と考えていたりすると出会った後の展開が、全然違ったのでございます。


偏見を助長するか、改善していくかは、すべて自分にかかってくるということでございますな。。


まともじゃナイ(-.-;

訓練校の指導員は男女ふたりづつに非常勤ひとり、プラス所長の6名。

考えが偏っていなかった方は、非常勤の方のみ。

勉強にそろそろ慣れた頃、ひとりひとり呼ばれて指導員との面接がありました。
北海道・東北・関東・東海・中国・九州と地方出身が多く、都会生活初という人もいたので、困ったこととかの調査の意味がありました。
クラスメートの面接時間は、15分以上かかっていました。

私も、男性の指導員から、呼ばれました。
指導員の最初の質問から、はいぃ〜〜〜?  というものだったのでした。

指 「授業後、まっすぐ家に帰っていますか?」 
あ (   はいぃ〜〜〜? 帰ってますか?って、また子ども扱い?? なんなんだココは!!
  「あのね。先生は、まっすぐ家に帰りますか? 
   この都心の繁華街を通過する場所に学校があって、
   小学生ならいざ知らず、お給料もらってる大人が、
   寄り道くらいするのが普通でしょう。違いますかね??」
指 「・・・・・そう・・・・・ですね。・・・・・・・」

何か面接表のような紙があり、質問がいくつか書かれていたようですが、私の面接は、これにて終了 となったのでした。

2分くらいで面接終わった私にクラスメートは、「早いかったね。」と怪しみました。

このようにズレてる指導員に私は、“今まで何の疑問もなく、同じ指導をしてきたんだろーなぁ”と考えたのです。
私も若かったし、一流企業に行くわけだからいわゆる普通の感覚を失いたくない。
それに、18歳のクラスメートにも、この指導員たちの考えは良いはずもナイ。。

1年間、様々なズレがありまして、何度リングに上がったコトか・・・・・・
まったく、疲れた訓練校時代だったのでございます。

子どもって、誰?

訓練校は、入学前に就職してしまって、会社の教育の一環扱いで技術を身につけるという形でした。
ですから、お給料をいただきながら1年間のお勉強となりました。
身分は、会社員でありましたが学生でもあるという、フクザツ〜〜〜な感じでございました。

クラスメートは、男13 ・ 女7。
社会経験あり 10  なし 10
就職率は、ほぼ100% (1名だけ残念ながら・・・・・
しかも有名な企業ばかりでしたぁ〜〜
私の会社も、総合電機メーカー H○T○C○Iでした。

訓練校の女性指導員でちょっと偏った考えの方がいらっしゃいましたぁ。
ある日、授業の中でちょっとした言葉のあやで、
「私、頭が悪くてちょっとすぐにはわかりません。」と言ってしまったのです。
そうしたら、返ってきた言葉が、
「頭が良いとか、悪いとか、大人が決めることです!」だったのです。

この言葉を聞いた私の頭は高速回転

大人が決めるっちゅーコトは!
      ↓
うちらは、子どもか?
      ↓
指導員に見下げられ、バカにされてる?
      ↓
私だけじゃなくて、みんなにとっても、コノ言われようはヨクナイぞ
      ↓
  抗議しよう

と瞬時に決定いたしました。

「あの〜、ココに子どもっているんですか?
 仮にも就職して働こうとしている者たちではないですか?
 まして、あなたはその指導員です。
 そのような考え方で良いんですか?」


冷静沈着にそして正論をぶちかましてみたのです。


女性指導員は、あまりの正論と私の冷静さに圧倒されたのか、一言も発せず職員室へ。。。
授業の途中なのに、指導員がボイコット


私は、ちょっとすっきり〜したのですが、若いクラスメートにとったら、ちょっと刺激が強すぎ?
教室もシィ〜〜ンとしてましたっけ。

この女性指導員は、私にギャフンと言わせたいと思っていたようでしたが、2度も返り討ち状態となったのでございました。
この指導員にとったら私は、嫌な一筋縄ではいかない生徒になったのでございます。

ズレとの闘いのゴング鳴る

公務員のアルバイトは期限がありまして、生活・収入の安定にはならず、専門学校卒業後2年過ぎたころから、親に

「親は、順番としたら先にいなくなるんだから、自分で生活できるようなことをかんがえなさい!」

とお叱りがチョイチョイ出るようになりました。

知人の紹介の会社を数件、面接を受けたりいたしましたが、会社側のあからさまの差別・偏見の態度にいささかウンザリで、とても就職する気分にはなりませんでした。
しかし、 「いつまでも遊んでるワケにもいかないなぁ・・・」  と思い、障害者対象の職業訓練校の試験でも受けてみるか! と電話を入れてみたのです。
習得技術は、電子計算機プログラマーコース。
専門学校は、社会福祉だったので畑違いの180度転換したかっこうになりました。

すると運命だったのか! 急な展開が待っていました。
 
「明日、ちょうど試験をする予定なので、都合がよければ受けませんか?」
「えぇ〜!!明日!?ですかぁ〜?
と翌日急きょ入試を受ける羽目になったのです。


何も勉強もせず、何の書類も準備する余裕もないままに、訓練校へ向かいまして職員室で名前を告げると、私にとって思いもよらぬ言葉が所長から発せられました。

所長 「えっ、一人で来たんですか?」
あ  「足も目も耳も口も使えますから、一人で来たんですケド、何か?」

所長は、一瞬たじろいだようですが、あまりにも私が一人で来るのは普通のことだろうというオ〜ラを出しまくっていたので、にこやかに 「どーぞ!」 と言ってくださいました。
他の受験生は、必ず親が付いてくるそうで、一人で乗り込んだのは初めてだったらしい。。。
私の親も付いて行かないのが普通と思っているので、単独行動で何の疑問もナイ。。


入試は、即日合格を言い渡されて、これまた。。

たった2日の間で、プ〜太郎から学生に急展開となったのでございます。


その所長が言い放った
 「えっ、一人で来たんですか?」
という反応は、私に嫌な予感を感じさせたのでございます。

案の定、その訓練校は、障害者だから・・・・・・・・・・、障害者というものは・・・・・・・・・・という偏見・差別観を入学後には日々感じるところでございました。


いったん役所で働いた経験や、健常の方々とのお付き合いが多かった私にとって、引っかかるものが多々ありました。
学生の1年間は先生の観念との戦いの日々を、過ごすことになったのでございます。

この経験も、また人生の糧となっていくのでございます。

秘密主義ではナイんだよ。

ひとりひとり、持って生まれた性格というものがありますが・・・・・・・・
私は、秘密主義を持っていたようでございます。

「あんたは、まったく〜何も親に教えてくれない子どもだったよね?」。 
と成人になってから母に言われたのでございます。

「はぁ〜〜〜?え、そうだったっけ?」  

「だって、私は小学校の先生とか同級生の親御さんから電話頂いて、初めて知る話が多くて恥ずかしい思いを、何べんもさせられたんだから!!」 


べつに隠していたわけじゃぁないんですよ。
親に逐一報告するような重大事項と思っていなかった。というのが本音でございまして〜〜

まぁ、たしかに、小学校の学級崩壊や中学でのイジメ問題も、あまりしゃべった記憶はあまりナイ!!
自分の世界のコトだから、自分の中で消化し、解決できればいいや!的考えだったのですな。

自身では、秘密主義というふうにはコレッポッチも思っていなかったワケですが、結果的に秘密主義になってしまっていたのでした。。。。

ゴーヤジュース

今までの経験で一番ニガイ思い出。。

それは、30代初めに社内でお付き合いした方がいました。
ハンディ持ちとか健常とか、ふたりの間ではそんなのは問題ではありませんでした。

社内恋愛は、周囲にバレルといろいろヤヤコシイので、社内ではお互いポーカーフェースを二人とも貫いておりました。

当然結婚とか意識するお歳頃。
お付き合いも3年以上経ち、彼の親に会ってみようと北陸地方へと向かいました。

全国各地(札幌、盛岡、宇都宮、名古屋、大阪、熊本、福岡)を仕事で廻っていましたが、差別観にも地方格差があるようで・・・・・・・・・・・・・

北陸は、最強でしたぁ!!

ご両親にお会いして、ハンディ持ちなのでさすがに驚かれたようですぅ〜〜
私に対しては、直接的には世間一般的なお話しかせず、私はホテルへと戻りました。

ふたりで帰京する道すがら、突然彼が泣きだし、私は!!

ご両親いわく  「障がい者は、人間じゃない。」 そうでございます。

ソレを聞いた私は、スゴ〜〜く冷静でした。
怒る気持ちよりも、時代錯誤じゃなぁとあきれる気持が強かったぁ〜〜。

彼が泣いていたコトも冷静にさせた要因であったと思うのですが・・・・・・・・・・・・

このことがきっかけで二人の間が、ギクッコシャクッコッとなりまして円満的なお別れっをいたしたのでございます。

不思議と彼にもご両親にも恨むような気持ちは、一切ナイのです。。

こののち、仕事で同じ地方に行ったのですが、まぁ〜!大変な偏見の嵐  に遭遇!!
嫁にならずして、よかった!と思ったのでした。


その偏見の嵐は、後日、記たいと・・・・・・・・・・・・・(笑)

カッコ悪い〜〜

幼児だったある日(5歳か6歳の頃?)、足の膝から下の訓練用の靴を履き出した頃のこと。

訓練用の靴と言うのは、足を変形させないためと歩くときに正しい足首の動きを足にさせるためのものなのです。

ただ履いているだけでは、少し歩けるようになっていた私にはもったいない!!
たぶんPT(理学療法士)に、「なるべく歩くように!」と命令があったにちがいないんです。

母に玄関で訓練靴を履かされ、いざお出かけっ!と手を引くが、私はうごかない・・・・・

母 「アレ?  どした?」
あ 「・・・・・・・・・・・・・・」
母 「なにしてんの?」
あ 「カッコ悪い・・・・・・・・・。 行かない〜〜〜。 んぎゃ〜〜
となったのでした。。。


やはり、他の子どもたちが履いているものと比べれば、明らかに違うし、見た目がゴッツイ!!
おしゃれ心を芽生えだしていたのかっ!?


それでも母は、私を外へ引っ張り出しまして療育センターへの連れて行かれたのでした。

私といえば、もう母には無駄な抵抗なのだ、逆らえないという意識が刷りこまれまして、現在に至っておりまする。

母の切替え^^

自分の産んだ子にハンディがあるということは、どんなにショックなことでしょう。

私は、ご当人ではないし、ハンディ持ちの身の上。
ショックの気持ちは、あまり想像もできず実感できません。
         (ごめんなさい・・・・・


母は、親子で自殺しようかとまで、追い詰められたそうで・・・・・・
しかし、死ぬのはそう簡単なことではありません。

そんな気持ちを抱えながら、病院通いの日々をこなしておりましたとさ。

脳性まひの研究医師と出会いまして、その先生に
「リハビリをしっかりやれば、歩けるようにもなるから、がんばりましょう。」と言われたのでした。


その言葉に母は、一点の光としてその日を境に “スパルタ母!!” と変貌するのでありました。

出生のひ・み・つ?

妊娠35週でこの世に飛び出してしまった 
私は、かなりの慌てもの
早産になった理由を考えても、母には思い当たらないそうで、、、、

「あんたが勝手に出てきちゃったんだから・・・・・」 と
「わ、私が悪い?のか。。。。」

なぜ?  と問われましても、困るんですぅ〜〜〜。


急な産気づきの事態に父は、近所の自転車を拝借して、
産婆さんへ急行
拝借って?それって、ドロボー??

自宅で生まれちゃいましたぁ〜〜。
2160gの未熟児。

ちょっと多めの布団とともに、やなぎこおりに入れられたらしいです。
やなぎこおりって、知ってます?
竹かごのでっかいハコです。
柳行李


現在の医療なら手厚い医療の対象だったはず・・・なのに、
当時自宅では、何もナシ!!
出生直後の検査も当然ナシ。

てなわけで、 私のハンディは見過ごされることとなったのです。

首の据わりは正常で、またまたハンディ発見はスルーされてしまったのです。

ようやく、「変だよ??この子。」と気付くのは、祖母でした。
いとこが1ヵ月違いで生まれていたので、祖母が微妙に筋緊張する私に気がついたのです。

お手柄!お手柄!! オバーチャン!!!


1歳前後に歩けなかったということをきっかけに、病院巡りが始まったそうで
やっと、【脳性小児まひ:付随運動型】の診断がついたのは、
1歳3か月のときだったそうでございます。。


どう働くべきか?

ど〜頑張ったって、健常の方とは同じ身体状況にはならないワケで・・・・・・・・
かといって、自分も役に立ちたい!し・・・・・・・・・

では、ど〜するか!!

こちら  に書きましたが海のキャンプリーダーの時も、同じことを経験しました。

健常者の邪魔にならず、自分もしっかり戦力になれる方法。
これを考え出すのです。

健常の方々の中、中学から生きてきたのですが、幸か不幸か? 今思えば、私をハンディ持ち扱いやハンディ持ちだからと手を出したりしない友人関係が築かれていたのです。

甘えていようものなら、
「黙ってたって、やってあげないよ!」 と きびちぃ声が飛んできたものです。


そこで学んだ処世術
1.できる と やりたい をわきまえる。
2.確実にできる を実行する。
3.できることのスピードアップを工夫する。
4.努力をする。
5.ハンディなしのこぼれを見つけ、フォローに徹する。
6.影の仕事も大事にする。
7.できないと判断された仕事は、いさぎよく即撤退。

これを実行し、ボランティアもバイトも企業での仕事もこなしたのでした。

おかげさまで、ボランティアもバイトも企業での仕事も、重要な役割をいただいて、人生のよい経験をさせていただくことになったこと、大いに感謝いたしております。

イスから転げる!?

イスから転げたのは、私ではありません。
区役所の人事課職員さんです。

それほど驚かせたんです、私。じゃあるまいし・・・・・

専門学校2年目にお世話になった実習先の通園施設
知的ハンディが中心で特別支援学校(養護学校)卒業後の人たち20名がいる成人クラス。

出産のため出産・育児休暇の代替職員を探すことになったのですが、私にその話が来たのです。


まったくの新しい人が入るより、通園メンバーが慣れている人がいいし、職員も説明要らずで即戦力になる人がいい、という条件にピッタリ当てはまっちゃったわけで〜〜〜〜〜〜〜

私も専門学校卒業後、プー太郎状態で願ったり叶ったりでしたぁ〜

で、推薦状を人事課へ出していただき、「手続きに行っておいで!」と区役所に向かったのです。


人事課の窓口で用件と名前を告げました。
すると、次の言葉とともにイスから転げたのですよ。

「障害者が来たぁ〜〜。」

って、失礼でしょ? 

その人事の方、慌てまくって電話をとって推薦状書いた係長に確認!

「障害者 が来ましたよ!! いいんですかっ!!!」

「障害者の施設に障害者の方ですよっ!!  いいんですかっ!!」

「名前間違っていないですねっ!!」

と大きい声で連呼。。


そ〜何べんも障害者障害者って叫ばんでもいいだろーーーに。
わかってるってばぁ。



私はそれを見ていて、怒る気持ちよりも笑いがこみ上げてきて、こらえるのに必死でした。

電話を終えた人事課の職員さん。
「あなたでいいそうだから・・・・・・」と手続きしてくださいました。
私は、満面の笑みと丁寧な挨拶をして、即行で退却。
区役所を出てから、ひとりで大笑いしちゃいました。


1979年、まだまだハンディ持ちが働く環境にはなっていなかった時代。

それは驚くことだったんですねぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

心に残る言葉

たぶん、5、6年のころだったと思うのですが、ゲストに花束を渡す役目をいただいてある講演会に行った時のコト。
花束を無事に渡し終えて、控え室でゲストと歓談の時間があったのです。


「あなたには、これからたくさんのことがあるでしょう。もし、辛い道、楽しい道の分かれ道の真ん中に立つことがあったなら、辛い道を選びなさい。楽しい道は、いつでも歩けるから。」


ゲストがどちらのどなたさんだったのかは、記憶の外に・・・・・・・・・・
肝心の講演の内容も記憶の外に・・・・・・・・・・・・

この言葉は、非常に心に残るものとなりまして、人生の節目の度に心に浮かんでくることになりました。


小学生にとっては難しい言葉であったと思うのですが、真剣に語りかけてくださったことが強く、そして忘れちゃいけない言葉として、私の心に残ったのです。


辛い道を選んできたかと考えますと、ど〜かは??ですが、楽な道ではなかったから良いとしていただきましょう。。(ダレに??(笑))

気持ちとウラハラ

父の登場です。
父は、漫画家の夢を秘めて母と社内結婚しましたぁ。(←バラしていいんか?!

私が3歳の時、何の相談もなくイキナリ

「会社、辞めたから・・・・・・・・・・」  と。

母は、爆発に打たれるごとくビックリして、しばらく夫婦の会話は途切れたのでした。
ハンディ持ちを抱え、何を考えているんだっ!と、その後、夫婦でのイザコザの度にこの件を持ち出され、小さくなるなのでした。
は、会社とのコマーシャル契約をして辞めたことが、あとで判りまして生活困窮はまぬかれたのです!!

そのが娘かわいさにお土産を買って帰ってきてくれるようになったんです。

「はい、どーぞ。」との手に渡そうとするのですが・・・・・・・・・の手は・・・・・・・背中の方?後ろにいってしまうぅぅぅ・・・・・

憎き付随運動よ!!
気持ちとは裏腹で、逆に身体が動いちゃうのです。

は、わかっているんでしょうけどその手の動きが悲しくて、お土産を買ってこなくなっちゃったのです。

この事象は、現在もたま〜にあるときが・・・・・・・・・ 
かなりコントロールが可能となってますがね。

よ。ごめんよぉ〜〜〜〜〜。。
のお土産がイヤイヤだったわけじゃナイのよぉ〜〜〜。。



今さら、遅い??

明け透け

ブログのタイトルに使っている 「明け透け」 という言葉。

これは、ハンディ持ちの友だちによく言われた言葉です。
なにを思って 明け透け と言われるのか・・・・・・・・・・(笑)

いまだによくわからない部分もありますが、たぶん、たぶんですが、
自分のハンディのコトあまりというか、ぜんぜん気にしてないように見えるから?
と思っております。


ぜんぜん気にしていないではなく、気にしなくなったというのが、正しいところでございます。

自分の中の差別感情

福祉専門学校の2年目。
学びの中心は、障害者分野、老人分野へ。
2年生の実習先は、知的ハンディを持つ方々の通園施設でした。

ここでの出会いは、私自身の持っている価値観・差別感情など、たくさん考えさせられ、新たな発見など本当に多くを学んだ1年となったのです。

まず、自分の中にある差別感情について、気付かされました。
ハンディを持って生きていると、どうしても自分以外の視線に敏感になっていきます。
相手が自分をどう思うか? ある程度わかってしまうのです。

それは、知的なハンディの方々も同じでした。
私は、知的なハンディのことは先入観で「何もわかっていなかった。」のです。
どこか、ハンディの種類が違うという優越感?を持っていたのでしょう。

知的ハンディの方々 = 理解できない方々

けれど、それは間違いだったのです!!
誤まった考えを長年してきていたのです。

そのような考えがきっと、相手に見え見えになっていたのでしょうね。
実習先で、全然私を通園生さんたちが受け入れてくれなかったのです。

なんで? なんで?  と考えつつ、夏を迎えてしまいました。

合宿の行事で宿泊旅行がありました。
2泊3日衣食住一緒です。
その夜、部屋でのレクレーションのあと、布団を引いて寝る準備をしていたときです!!

いきなり、バッシーーン!!!   とマクラが飛んできました。

私は一瞬 アゼン!!としましたが、夢中で投げ返しました。


不思議ですが、そのマクラ投げ返しの瞬間、自分が悩んだ本質【差別感情】が理解できたのです。

「あぁ〜、まったく理解していなかったんだ。
 身体だろうと、知的だろうと人間であるんだから、一緒なのだ。
 知的ハンディは、表現できないというハンディであって、眼には理解できないんじゃないかと思えても、すべて理解はしてくれている。」
ということが、スゥ〜〜と見えたのでした。


実習中こんな出来事がありました。

調理の時間がありまして、その時お皿を割ったのです。