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姐御−グッピー

Author:姐御−グッピー
どうも世間の障害者というククリからは、はみだしてしまう。
イジメも差別も笑いに変える、そんな経験を綴りながら、ど〜してこんな自分が出来上がったのか? 探ってみたくなりました。

はたして、何が見えてきますかねぇ。(笑)

2008.4.20 start..

写真を変えました。
オホーツク海です。
(本文とは関係ない!?) (^^;;)

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あだな

私のハンディは、脳性マヒ アテトーゼ型【不随運動型】というものです。
脳の運動神経が何らかの影響を受けて、コントロールができない状態にあるものです。

たとえば、
☆頭では手を上にあげたいと命令しても、実際の手は別方向に動く
☆人がフッと右側に近づくと、命令していないのにその人を叩く
と、本人の意図しない動きとなるのです。


幼児のころは身体に力が入らずに、寝かされたらそのまんま!
壁に寄りかかって座らせられても、ズズズズと前に行くか、横にコロリン!!

一度、横にコロリン!!となって、ソコに味噌汁のナベがっ!
ツッコミまして、左手に大ヤケドをしました。
うすくケロイドが残っていますが、本人は、痛かった記憶はありません。


そんなクニャクニャな状態を形容して、母が付けたあだ名が

      こんにゃく姫!

こんにゃくですよ、こんにゃくっ!!! 

娘に こんにゃくって、普通言わないだろーーーーー!


これも、母のスパルタの一部??


しかたがナイ・・・・・・。

中学の3年間、担任とクラス名(I組)が変わらなかったんです。
それは、しかたのないことだったかもしれません。

その学年では、一番年上、教師経験を重視したんだと思えるから・・・・・・・・・・・・。

でも、でもね。
もう少しぃ〜〜、イジメ対策や私本人に対するフォローがあってもイインじゃないかい?
不登校時に、学級委員連れて1回家庭訪問しただけだったような??

進級のコトでは格別な配慮してくれたし、私は学校に戻ったわけで、ソレで満足だったのかな。

ハンディ持ちなんて、先生にとっても【ど〜扱って良いものか??】と思っていたに違いナイ。。
先生も担任になって、迷惑だった!? カモね!? 。


卒業27年後に全体の大同窓会があったときに、当時若手の先生が 
「君のこと、担任したかったよ。」と言ってくれたのが、とっても嬉しかった。
ちょっとだけ、慰められましたよ。

爆発ッ!! ボン!!

中学の3年生になりまして、始業式に大ショック!! が ございました。
この大ショック!! は、生涯一のもの。
これ以上の大ショック!! には、まだであったコトないですわ。

それは、
担任の先生が3年間同じ!! 
だったのです。

もぅ〜〜〜〜、泣きたい。
これは、最大のイジメだわ。   
 
と落ち込みました。


どよ〜〜〜んとした気持ちで始まった3年生。
修学旅行がありました。
イジメで浮がちの私。
なんとかクラスの班の一つに入れてもらい、班での修学旅行についての学習発表で班代表として発表することとなりました。
これも、イジメの流れだったかは、記憶は薄れました。
学習発表の内容も、記憶は薄れました。

ですがキョーレツに記憶に残る出来事が、この時起こったのです。


緊張しながらも、学習発表した私。
最後のお決まりのセリフ:  「何か質問はありますか?」
その時です。後ろの席の男子が
 「おまえの言ってること、よくわかんなかったよ。もう1回、初めからやりなおせよ!」 
と言いました。

私は、担任が何かするのかなぁと顔をみたのですが、担任は知らん顔。。
心の中で、「無視かよっ!」 と。。。。。。。

次の瞬間、私の中で  プチッ!!  と切れました。

「聞いていなかった、あんたが悪いんだっ!!! 
もう1回やる必要はナイ!!!」

と言い放って、席についてしまいました。
授業のそのあとの記憶がナイ!!(笑)
ナイってことは、何事もなかったように淡々と授業が進んだんだと思います。


しか〜し、休み時間になると、クラスの雰囲気に異変が!!
イジメする雰囲気が、ピタッ!  と無くなったのです。

給食は、運んでくださるし、掃除も一緒にやってくれるし、180度クラスの態度が変わったのです。


いったい今までのイジメはなんだったんだ?と思うほど、変わりました。
それは、学年全体に広がっていきました。
私が怒鳴るなど、きっと大ニュースで誰も想像しなかったコトだったんでしょうなぁ。

「なぁ〜んだ、怒ればよかったのか! もっと早く怒るんだった。」 と思ったのでした。

残りの中学生活は、イジメのストレスから解放されました。
でも、友情はあまり築けませんでしたが、ふたりの友人とは30年超の付き合いになっています。



この経験でイジメについては、コワイものなしになりました。。

ボロボロッからの脱出!!

ボロボロッになった中学校でのイジメは、人生初めての試練!! (大袈裟か!?

イジメの内容は、
・へ〜んな歩き方〜〜。 と言われるし
・へった〜な絵書いてる〜〜。 とも言われて、
・所持品を隠される。
・私の触ったものを避ける。
・無視。
という具合でした。

不思議とイジメる相手への恨みの気持ちは、薄かったように思います。
ただただ、その行為だけがイヤでした。
そして、「イジメる子にも何か抱えてるものがあるんじゃないか?」という考えがあったと思います。
ど〜して、そのような考えがあったかは、よくわからないんです。

不登校になって母は悠然と、行けるようになったら行けばいいと言ってくれたので、救いでした。


クラスメートの中にやさしい女の子がいて、1年生の2学期jから学校に行けなくなった私をまで訪ねてくれました。
そして、「の日曜学校に一緒に行こう」 と誘ってくれたのです。

その日曜学校には、結構同窓生が通っていたのです。
6〜7人はいたでしょうか?
日曜学校では、もちろんイジメはありません。
中学は休んでいても、日曜学校は休まず通ってました。
ここで、少しづつ人間関係の築き方を学ぶことができて、中学にも戻れる気持が芽生えてきたのでした。

2年生の2学期から、中学に毎日通うことができるようになりました。
しかしながら、中学の同窓生は420人もいたので、日曜学校のメンバーと同じクラスになるのは難しかった!?
学校でのイジメの環境は、クラス替えがあったにも関わらず、1年生のときとあまり変化はありませんでした。


ただ違っていたのは、ボロッボロッから脱出し、少しピッとしたデニム生地くらいになっていたコトでした。


その後、修学旅行準備事件があって、デニムからもう少し高級生地へと移行するのです。(笑)

ボランティアは、されることから、することへ

中学生のときに参加した海での障害児キャンプが、とってもとっても楽しくて、毎年参加していました。
それが高校2年の時に高校生の参加が打ち切られました。
なんとか参加したくて主催者に問い合わせると
主催者 「なんだったら、ボランティア枠で参加してみたら? 
      参加者ではなくて、リーダー補佐で働くんだよ。」
私    「はいっ! なんでもします。働きます。」

あまり何も考えずに簡単に決めた私。


このことが、キャンプ・ボランティア・福祉を学ぶにつながる第一歩となっていくのでした。。

対照的なふたり

中学で様々な荒波を どんぶらこっこ〜 ドンブラコッコ〜と漂ったり、乗り越えたりしたあと、無事?高校へと進学しました。 

中学での1年間の不登校が影響して、偏差値が最低レベル、身体能力で体育授業の考慮の条件があって、ハンディ持ちも受け入れている私立女子校へ行きました。


クラスメートは、60人 なんじゃこりゃ  
見るからに“やんちゃ”な方や、物静か〜〜なお嬢さんまで、それはそれは多彩なクラスメート。。
イジメについては、「まぁ、あるんだろ〜な。」くらいにしか思っていませんでした。


クラスメートにもう一人ハンディ持ちがいました。
彼女、養護学校で1年生だけ一緒だったのです。
縁とは、面白い。
その高校は、小・中・高とエスカレータであったので、彼女はずっとその学校で過ごしていたのでした。

最初、彼女はいろいろと教えてくれたりしてくれたのですが、私が他のクラスメートと仲良くなりだすと、その関係は変化していきました。

中学でのさまざまの出来事は、大いに役立っていたようです。
あまりイジメられもせず、むしろちょっかい出されながら友人関係ができていったように思います。

私は、楽しい高校生活をおくらさせていただきました。


逆にその彼女がイジメの標的となってしまったのです。

私はちょっかい出されると、お話をするようになっていました。
「そんなことしないで〜〜」 とこれだけでかなり違います。
相手が何を考えているか、お互いに伝えあうことでイジメを助長できない関係になることができます。
本人がしなくては、意味ナイですが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼女は私がクラスメートと仲良くなっていくのが、お気にめさなかったらしく、ぜんぜんしゃべってくれなくなり、どんどんクラスで孤立しちゃったのでした。


これは3年生まで続き、なにが起きても彼女は孤立。。
よく出来たもんだと、今でも尊敬いたしております。

卒業後は、同窓会の連絡も出来ず、行き方知れず!? だそうでございます。

はみ出し?と気づいたきっかけ!

ハンディ持ちの子を持つ親は、ど〜しても過保護に走る 
それは、ごくごく自然なこと。
うちもそうでした。

がしか〜し、中学・高校と進むうちに過保護がはがれて、一人で行動するのがあたりまえという、ふつ〜〜うな成長をしていきました。

高校生の後半だったかある日、チャリティーの劇場鑑賞会の親子でのご招待がありまして、
都心の帝国劇場へ。


母  「ちょっと用事があるから、現地集合ね。」 とさっさか先にお出かけ。。
私  「オッケ〜」  シメシメ 一人の方が気が楽じゃ。。


ひとりで帝国劇場に着くと受付の知り合い、私を見つけ
知  「え  ひとりで来たの  お母さんは 」と怪しみます。
私  「母は、先か、後か、まぁ来ると思いますが・・・・」  と自分の分だけチケットいただきました。
知  「別行動 」
私  (苦笑・・・・・・・・・そんなに驚くこったぁ〜ないだろ〜〜)

しばらくして、母がやってきました。
受付する前に友人につかまっている様子。

知  「え  ひとり?  お嬢さんは 」と怪しみます。
母  「娘は、先か、後か、まぁ来ると思いますが・・・・」
知  「別行動 」
母  (苦笑・・・・・・・・・そんなに驚くこったぁ〜ないだろ〜〜)

とリピートしているではありませんか



私は、ここではみだし明け透け人生の一歩と気がついたのでした。

あと4年だね。

題を読んで、寿命と思われた方は、・・・・・・・・・・(笑)


実はこのセリフ、高校1年の時に家の前の公園で、小学生から言われたものです。

中学後半から、漠然と将来は子供と関わりたいと思い始めていました。
公園の花壇を母が一部手入れしていたことがあって、近所の遊びにくる子とは、顔なじみでおしゃべりしたりしていました。

何の脈絡だったか忘れましたが、
「おねえちゃん、歳いくつ?」    と聞かれ
「16歳」               と答えると
「あと4年だね。」          と言われたんです。 

現在だったらすぐ成人式?と思い浮かぶんですが、当時はまだ若かった。
思い浮かばず、はて?と考えていると

「結婚式!!!」         と言うではないか
「はいぃ〜〜?」  (相棒:杉下警部風に)

ぷ、ぷぷぷっぷ、、ぷっは〜〜〜〜〜


わ、笑いが止まりましぇ〜〜〜ん。



成人=結婚できる     という思い込みをしていたのです。


その小学生は、正しい知識を身に付けたのでした。

イジメは必然?

養護学校の10人クラスから、居住学区の地域中学へと進学しました。
それも、本人に承諾ナシ!!
親(主に母(笑))が決めました!  
父は、ヌボォ〜ってしてた?かも!

中学校という洗濯機に放りこまれて、アップアップしたのは言うまでもナイ!!

マンモス中学校で1学年8〜10組までありました。
クラスメートは、42人。
同窓生420人。
ハンディ持ちは、我ひとり

当然、目立ちますがな〜〜〜〜〜〜〜〜〜

必然も必然というように、クラス自己紹介直後から、イジメの洗礼が始まりました。


なにせ、ヌボォ〜が抜けきっていない・・・・・・

いわゆる健常者という方々とのタイマンの付き合いは、初体験の私。
相手も障害者という人種?との付き合いは、初体験のご様子。

初体験同士での探り合い??(笑)

私は、ど〜対処していいものか?わからなくてただただオロオロしていました。
 対  なのですから、 が当然不利に。(笑)

1学期の後半には体調を壊して、事実上の不登校となってしまいました。

養護学校という大事に手洗いされてた布が、いきなり洗濯機でガランガラン ウィンウィンと回されたのですから、当然ボロボロっ。。


そのボロボロっが、自ら学校に戻る日がくるのです。

ここでは、長くなるので後日に〜〜〜〜〜〜

たった10人で学級崩壊!?

小学校は、養護学校。
当時は、都内に2〜3校しかなく、重度障害の子供たちは就学猶予措置がされていた時代です。
ですから、入学試験もありまして、その入試でパズルのような知能テストを覚えています。

3年生までは、ヌボォ〜とした自我のナイ障害児をしていたみたい(^^;;で、記憶がほとんどありません。友達同士のこととか、まったくナイ!!

母子通学という、授業中も母たちが別室待機態勢をとっていたので、依存心だったんでしょうなぁ。


しかし、4年生になった途端、学校の体制がよくなり母子分離!!
突然自我に目覚める出来事がっ、次々に台風のごとく吹き荒れ、まぁ〜〜〜ギャングと変貌していくことに・…………………

まず、関西の養護学校から3名の転校生と新設養護学校への転出生がいまして、クラスのメンバーが入れ替わりました。
東京人にとって関西人は、まず灰汁が強い。
おまけに言葉が違い、バンバンマクられるような強烈な印象で、アッという間に関西人にペースを乱されました。
なにせ、東京勢は、ヌボォ〜〜っとしていたんですから。。 あ、私だけか?(笑)


2つ目は、担任が新卒の女性の先生になりました。
関西弁と東京言葉でしかも言語障害の嵐吹く教室。
生徒の言うことをすぐ把握できればいいんだけど、新任の先生にとったらそれさえも困難。
一人にかかりきりになることもしばしばで、そうなると他の生徒はじっとしているわけナイ!!
ひとり、あれこれ始める
    ↓
先生、気が散る
    ↓
もうひとり、あれこれ始める
    ↓
先生パニック!!

というのの繰り返しとなって、最後に先生が泣いて職員室に帰っちゃったことがありました。


それからというもの生徒たちは、朝登校すると教室になんかおりません。
裏に大きな公園があってそこの遊戯物が置いてあるエリアにまっしぐら!!(笑)
私のクラスは、みな少しの不自由さしかない元気な10人だったのです。
養護学校で最高に元気だったかもしれません。

副担任と教頭先生がよく探しにきました。(^^;;
学校へもどると、校長室で校長先生がお説教。
この校長室、何度1年間に入ったんだろ〜〜〜?

しまいに校長先生が 「またですか?」 とか 「元気過ぎだね。」 とか他の先生に語っていたのを覚えています。

高校も中学も併設の学校中の有名学年になりました。



私のこの学年の記憶はこういう事件ばかりで、勉強の記憶はございません。




5年・6年の担任は、言うまでもなく超のつくベテラン教師とあいなり、きゅっと2年間絞められたのでした。チャンチャン

最古の記憶

幼児時代の記憶は、もう40年以上も経過していますから定かではありませんが、療育センターなるものに母親と私で入所して、リハビリ集中特訓?している記憶が最古

訓練室で足を全部補そう具に入れられ、痛いような苦しいような(笑)
早くこの時間から逃れてしまいたい  複雑〜〜〜〜な気持ちを覚えております。

集中特訓のストレスからか、5歳で虫垂炎を発症しました。

虫垂炎での入院中、療育センターでの病室が2号室だったそうで、子供なりに気になっていたのでしょう、虫垂炎の治りかけでの母との会話で

「2号さん、どーしてるかなぁ?」と言ったそうです。

その言葉の“2号さん”に同室のオバァちゃんが食いついたっ
当時は、“2号さん”といえば、愛人さんのコトなんです。
オバァちゃんがすかさず

「いやだね! この子は!

といわれたそうな。。
母は、苦笑するしかなく、周囲は一瞬の静寂のあと大爆笑になったそうです。

言った本人とすれば、何が起きたかワケわからず、ボーーッしていたそうな。

この話は、今でも母にとっては可笑しくもあり恥ずかしくもありの語り草でございます。


魚の骨

ブログ初記事は、母のスパルタ第1弾!!

1歳で脳性まひを持っていると判明してから、母は東奔西走。
母は、強し、恐るべし。。(笑)
そのおかげで、今がある。
ありがたや、ありがたや〜〜〜〜〜〜!!

言語に問題あり、クチビルに緊張があり、ま、パ行が言えナイ。
クチビルをなんとか閉じさせようと考え編み出した技が、お魚マンマ放り込み作戦。(笑)

小骨、大骨まんま口に入れられ、「口の中で分けて骨だけ出しなさい!」というもの。


ま〜ね、それで言語障害が良くなったかといえばワカラナイですが、今もきれいに口の中で身と骨がきれいに分離可能ですよ。(^^)v



ちなみにハンディ持ちの主人は、小骨が少しでも口に入ると身まで吐き出しますから……………おかぁちゃんがきれいに骨はがして食べさせていたのかと想像できます。

私の分離偉業?を見て「ど〜して出来るんだよっ!!」と言ってますわ。(笑)

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